鎌倉時代の食事内容・回数は?貴族・庶民で違う?再現レシピも画像で紹介!
鎌倉時代の食事を知っていますか?平安時代からの変化はあったのでしょうか?今回は、鎌倉時代の食事内容・回数を〈貴族・武士・庶民&農民〉別に紹介します。加えて、鎌倉時代の食事の再現レシピも紹介するので参考にしてみてくださいね。
(このページにはPRリンクが含まれています)目次
- 鎌倉時代の食事の特色は?平安時代からの変化はあった?
- ①醤油のもととなる溜が誕生した
- ②農業技術が発展し二毛作が可能になった
- ③屯食が登場した
- ④平安時代から引き続き米が権力の象徴だった
- ⑤末期には武士や貴族を中心に赤飯の風習が始まった
- 鎌倉時代の食事内容・回数【武士】
- 食事回数は朝夕の1日2回が基本
- 主食は玄米で肉・野菜を副食で摂り入れた
- 鎌倉時代の食事・回数【貴族】
- 食事回数は朝夕の1日2回が基本
- 白米が主食で品数が多く保存食が中心だった
- 鎌倉時代の食事内容・回数【庶民・農民】
- 食事回数は朝夕の1日2回が基本
- 蒸した玄米・固粥が主食だった
- 鎌倉時代の食事の再現レシピを紹介!
- ①冷汁うどん
- ②醤
- ③鯛の昆布締め
- 鎌倉時代の食事を再現してみよう
鎌倉時代の食事の特色は?平安時代からの変化はあった?
歴史の長い平安時代から時代が下り、武士が力をつけると鎌倉時代に移行していきます。歴史の中でも力強い印象のある鎌倉時代の食事は、平安時代からどのような変化があったでしょうか。まずは鎌倉時代になってからの当時の食事の変化を見てみましょう。
①醤油のもととなる溜が誕生した
鎌倉時代になると、醤油のもととなる溜(たまり)が登場しました。溜とは味噌を作るときに底の部分に溜まる醤油のようなもののことで偶然、信州で味噌作りを僧侶が教えていたときに発見されたようです。鎌倉時代の食事は平安時代からの伝統的な食事が多く、食材の味付けに調味料は使われずにお膳の中に塩や醤が別に盛り付けられて提供されていました。
現代で使われている醤油も、その後の歴史の室町時代に入ってから作られ、各地方で確立していきます。
②農業技術が発展し二毛作が可能になった
鎌倉時代になると農業技術が発展し、二毛作が可能になります。以下の農業設備によって、作物が効率的な作業ができるようになりました。
・くわ
・すき
・灌漑設備
・こえ
・水車
こえとは牛や馬の糞を発酵させ肥料にしたもので、使用を開始したことで作物の質や量が大幅に向上しました。当時の武士は基本的に武士という役職ではなく、普段は農民として田んぼや畑を耕しており、出来上がった作物は年貢として納めます。自分の取り分を少しでも多くするために、さまざまな工夫を凝らして農業を行っていたことがわかります。
③屯食が登場した
鎌倉時代には屯食(とんじき・とんしょく)と呼ばれる食べ物も登場しました。当時は戦が多く、携帯食が登場した時代でもあります。屯食はおにぎりの原型ともなる食べ物ですが、握って焼いた玄米を竹の皮で包んで持ち歩いていました。
また玄米をそのまま持ち歩き、布に包んで濡らしてから土に埋めてその上で焚き火をすることで、玄米が炊き上がるという調理法も行っていたようです。
④平安時代から引き続き米が権力の象徴だった
日本の歴史の中で切り離せない食材の米ですが、鎌倉時代に入ってからも米は変わらず権力の象徴でした。平安時代までは、田んぼの土地の所有者である公家や貴族たちが権力をにぎっていましたが、鎌倉時代になると土地を守る者が力をつけ、土地を奪い合う形となっていきました。
(*平安時代の食事について詳しく知りたい方はこちらの記事を読んでみてください。)
⑤末期には武士や貴族を中心に赤飯の風習が始まった
鎌倉時代の末期になると、武士や貴族の間で赤飯の風習が広まります。赤飯はすでに平安時代からあり、枕草子の中でも登場していますが、当時の赤飯は小豆粥と呼ばれるもので現代の赤飯とは大きく違ったものでした。鎌倉時代後期から室町時代にかけては、製鉄技術の向上によって蒸したご飯から炊いたご飯へ炊飯の方法が変化していきます。
さらに精米技術が向上したため、武士の間でも玄米から白米を食べる習慣へと変化したことや農耕技術の向上から、赤飯を武士の間でも食べられるようになりました。赤飯は現代でもおめでたい席で食べられますが、赤は日本では古代から魔除けの意味を持っています。当時は乳幼児の死亡率が高く、元気に産まれたことへのお祝いとして用いられるようになりました。
鎌倉時代の食事内容・回数【武士】
貴族に比べて力仕事や戦に赴くことの多い武士ですが、当時の食事はどのようなものだったでしょうか。ここでは当時の武士の食事について、具体的に説明します。後ほど紹介する貴族や庶民との食事と比べながら、参考にしてみてください。
食事回数は朝夕の1日2回が基本
鎌倉時代の武士の食事の回数は朝と夕方の2回が基本で、これは平安時代以前から変わりなく続きます。しかし、当時は戦が多く、体力を消耗するため1日5食とることもあったようです。いざ鎌倉と言うように、戦などの緊急時になると保存食が多いに活躍し、当時貴重だった味噌は手早くお湯に溶けて味噌汁になるため重宝されていました。
戦のときの武士の食事のカロリーは3000kcalとなり、現在の男性の摂取カロリーの2300kcalと比べるとかなりの量を食べていたことになります。