天ぷらの歴史|発祥・起源はどこ?徳川家康の死因って本当?
天ぷらの歴史を知っていますか?どのようなルーツで日本に伝来したのでしょうか。今回は、天ぷらのポルトガルから日本(長崎)伝来の歴史や徳川家康の死因との関係を紹介します。天ぷらの発祥・起源の歴史や、どんな種類があるのかも紹介するので参考にしてみてくださいね。
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天ぷらの歴史は?起源・ルーツはどこ?
天ぷらは代表的な日本料理であり、日本人だけでなく多くの外国人からも人気の高い料理です。そんな天ぷらはいつ頃どこで発祥したものなのか、今回は天ぷらの歴史について紹介します。天ぷらの起源やルーツの他、名前の由来や天ぷらの具材の種類、昔と現在の調理法の違いなどもあわせて紹介します。
天ぷらは「ポルトガル」から日本に伝来した
まずは、天ぷらがどのように日本に広まったのかを見ていきましょう。また、天ぷらの名前の由来や語源についてもあわせて紹介します。
室町時代に日本の長崎にて富裕層の間で広まる
天ぷらは室町時代にポルトガルから伝来し、当時の貿易口であった長崎にて富裕層を中心に広まったと言われています。当時は現在の天ぷらの調理法と違い、小麦粉を卵や砂糖で練って素材に付けていたため、厚い衣が特徴でした。また、天ぷらの具材には主に魚や野菜が使われていたようです。
なお、当時は油が高級品だったため庶民の間に天ぷらが広まることはなく、富裕層の料理として扱われていました。
江戸時代に庶民の間で広まるようになる
室町時代や戦国時代では高級品だった天ぷらは、江戸時代に入って油の価格が下がると、徐々に庶民の間にも広まるようになりました。江戸時代の天ぷらは、小麦粉を水で溶いてから素材につけるようになったため、現在とほぼ同じ食味だったと言われています。また、屋台では串に刺した天ぷらが売られ、江戸の人々に広く愛されていたようです。
そして幕末から明治時代にかけて天ぷらは全国的に広まり、多くの天ぷら専門店が登場しました。同時に、家庭内でも天ぷらが調理されるようになり、天ぷらは家庭料理として現在まで継承されています。
天ぷらの名前の由来・語源と「ポルトガル」の関係
天ぷらは、ポルトガル語の「テンペロ」や「テンポラ」が語源だと言われています。「テンペロ」は料理を意味する言葉で、「テンポラ」は四季に行う斎日を意味しています。
ポルトガルでは四季ごとに祈祷を行う期間が設けられており、その間は肉を食べることが許されません。そこで肉の代わりに魚や野菜に衣を付けて油で揚げた料理が食べられるようになり、テンポラと呼ばれるようになったようです。これらのポルトガル語が語源になった説の他に、油の当て字である「天麩羅」を天ぷらを読むようになったいう説も存在します。
(*天ぷらの語源や由来について詳しく知りたい方はこちらの記事を読んでみてください。)
天ぷらは徳川家康の死因でもある?
江戸時代の将軍・徳川家康は天ぷらを食べて死んだとの説がありますが、本当なのでしょうか。ここでは、徳川家康の死因が天ぷらというのが本当なのかどうか、紹介します。
鯛の天ぷらを食べて家康は死んだ説がある
徳川家康は、鯛の天ぷらを食べて食中毒を起こしたことが原因で死んだと言われています。隠居した家康は現在の静岡県である駿府で余生を過ごしていましたが、駿府に近い田中城を度々訪れていました。家康が最後に田中城を訪れた際に鯛の天ぷらを食べ、その後腹痛に苦しんだ末、約2ヶ月半後に家康は死んだと伝えられています。
なお、家康が食べたものは江戸や長崎で広まっていた天ぷらとは違い、素材そのものを揚げた素揚げ料理のようなものでした。当時の魚料理としては珍しく、あまりの美味しさに家康は普段の節制も忘れて大いに食べたと言われています。