明治時代の食事内容・回数は?庶民・貴族で違う?再現レシピも紹介!

明治時代の食事内容はどのようなものだったのか知っていますか?江戸時代からの変化はあったのでしょうか?今回は、明治時代の食事内容や回数を〈庶民・貴族やお金持ち〉ごとに再現画像とともに紹介します。明治時代の食事部屋の様子にくわえ、再現レシピも紹介するので参考にしてみてくださいね。

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目次

  1. 明治時代の食事の特色は?江戸時代からの変化はあった?
  2. ①肉食が広がり牛鍋などが誕生した
  3. ②西洋文化の影響で和製洋食が始まった
  4. ③家族団らんが取り入れられた
  5. 明治時代の食事内容や回数は?庶民の食べ物の中心は?
  6. 麦飯中心の一汁一菜
  7. 食事回数は1日3食が基本
  8. おやつは庶民には手が届かなかった
  9. 明治時代食事内容や回数は?貴族・お金持ちの食べ物の中心は?
  10. 和製洋食や米など庶民にとっては高価なものを食べていた
  11. 食事回数は1日3食が基本
  12. ビスケットなどお菓子も食べていた
  13. 明治時代の食事するのはどんな部屋だった?
  14. 明治時代に膳から座式の食卓になった
  15. 明治時代の食事の再現レシピ9選
  16. ①明治風の牛鍋
  17. ②明治風カレーライス
  18. ③シナモンシュガーのパンケーキ
  19. ④あんぱん
  20. ⑤明治時代のオムライス
  21. ⑥ビーフコロッケ
  22. ⑦ビーフカツレツ
  23. ⑧ブラウンソースのハヤシライス
  24. ⑨ビーフシチュー
  25. 明治時代の食事を再現してみよう

明治時代の食事の特色は?江戸時代からの変化はあった?

幕藩政治が終わりを告げて迎えた明治時代は、文明開化によって日本が激変した時代でもありました。そして文明開化を受けて生活が変わったのは、貴族だけでなく庶民や農民も同じだったのです。ここでは食事に焦点をおき、江戸時代から明治時代にあった変化を説明します。

①肉食が広がり牛鍋などが誕生した

江戸時代から文明開化を迎えた明治時代の食事における変化の筆頭といえば、肉食が広がり牛鍋などが誕生したことと言えます。実は明治時代を迎えるまで、日本人は肉食を避ける食事をしていました。これは天武4年(675年)に肉食禁止令の詔(みことのり)が発布されて以来、生き物の死骸である肉は不浄のものとの考えが定着していたことによります。

しかし文明開化を掲げた明治政府は欧米文化を積極的に取り入れたため、貴族を中心に西洋風の生活習慣や食事が取り入れられるようになり、肉食が一般的となりました。明治時代には牛肉は高価だったため、日本人はほとんど食べる習慣を持ちませんでした。しかし農耕具の鋤で牛肉を焼いたことがきっかけで作られた牛鍋は、物珍しさもあって大流行したそうです。

②西洋文化の影響で和製洋食が始まった

文明開化によって西洋文化の影響を受け、和製洋食が始まったことも明治時代の食事の大きな変化です。西洋文化を受け入れ洋食が広まる過程で、主食としてパンやパスタも伝えられました。しかし主食は米と考える日本人の食事に対する考えが、覆ることはありませんでした。貴族が洋食の食事をする際に、パンやパスタを付け合わせる程度にとどまったのです。

また洋風の食事はナイフやフォークで食べることを前提として作られれており、箸では食べにくいものも少なくありませんでした。当時の日本では正座で食事をするのが一般的だったので、フォークやナイフが使いにくいという住宅事情もありました。そうした明治時代特有の背景もあり、米に合う味わいで箸でも食べやすい食事メニューとして和製洋食が発展しました。

しかし明治時代初期に洋食を口にできたのは貴族だけで、庶民や農民が西洋風の食事をするようになるまでには時間がかかっています。これは庶民の住環境が西洋化するまでに、時間を要したからです。そうした庶民や農民の食事に変化がみられるのは、明治中期以降といわれています。

③家族団らんが取り入れられた

文明開化を受けて日本人に西洋文化が広まる中で、庶民や農民の食事や生活の中にも家族団らんが取り入れられました。明治時代まではお膳が分かれていたこともあり一家の大黒柱は一品多いなど載る料理に違いがあったり、食事する順番や場所が違ったりすることも珍しくありませんでした。そのため食事の際には会話を楽しむより、黙々と食べる風習があったのです。

しかし明治36年(1903年)に当時の有識者が座卓で食事をすることで、家族で会話する大切さを説き徐々に家族団らんが定着していきます。江戸時代までは男女で食事をする部屋や時間を分ける習慣があったことを考えると、大きな変化といえます。

明治時代の食事内容や回数は?庶民の食べ物の中心は?

出典:https://plaza.rakuten.co.jp/chira/diary/202006290000/

江戸時代を迎えるまでの日本人は、1日2食で生活していました。江戸時代には1日3食と食事回数が増えたものの、明治時代の文明開化以降の貴族と庶民や農民の内容は主食も含めて様々な違いがあります。ここでは明治時代の食事内容について、庶民と農民を中心に説明します。

麦飯中心の一汁一菜

文明開化以降の明治時代においても、庶民や農民の食事は麦飯中心の一汁一菜でした。米は高価だったので貴族しか口にすることができず、庶民の食事はおかずも質素なものでした。当時は電気もなく保温できなかったため、冷めて食べにくくなった麦飯を油揚げに混ぜたりお粥にしたりと食事のたびに様々な工夫を凝らしていたのです。

庶民や農民には質素倹約を美徳とする価値観が根付いていたこともあり、麦飯に野菜や魚を少量つけるのが普通の食事でした。やがて明治時代に欧米から農耕技術が伝わることで米の生産量が安定し、庶民の主食としても食べられるようになっていったそうです。

食事回数は1日3食が基本

明治時代も江戸時代から続く、1日3食の食事回数は続きました。その時間も現代と同じように、朝と正午と夕方と変わりません。しかし文明開化以降も庶民や農民の食事内容は麦飯に味噌汁、漬物などの和食中心のままです。明治時代の食事回数は、肉体労働者であっても変わりませんでした。

麦飯は栄養価を上げる効果はあったものの、庶民や農民は空腹を抑えるために1日の食事で茶碗5~6杯食べるのが一般的でした。そのため冷めた麦飯を夕食として食べる際には、茶粥にすることも多かったといいます。

おやつは庶民には手が届かなかった

明治時代の庶民や農民にとって、おやつは手の届かない贅沢品でした。食事内容が一汁一菜であることを思えば、当然のことです。そのため庶民の子供たちは、いもをおやつ代わりに食べていたようです。明治時代に文明開化を迎えて北海道の開拓が進み、じゃがいもの栽培が盛んになってからは、いももちが庶民や農民のおやつになる習慣ができたとされています。

明治時代食事内容や回数は?貴族・お金持ちの食べ物の中心は?

出典:https://octane.jp/articles/detail/712

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